KYOEIDO WINE

対談

第1回

岡見周二(前編)

陶芸家ではなく陶工として
焼き物に向き合う

2019/8/5

文・柿本礼子

共栄堂の小林剛士が若い頃からずっと憧れている人がいます。陶芸家の岡見周二さん、山梨県の陶房で器を作っています。「いつか岡見さんと自分のワインでコラボレーションできたら」との思いは、共栄堂のファーストヴィンテージのエチケットで実現しています。岡見さんに長年聞いてみたかったことを伺いました。前編は陶芸家になるまで、純粋芸術について、作品作りについてです。

いい顔に育てるのは、自分の責任

小林:
僕は大学時代にアルバイトしていた居酒屋でまず岡見さんの器に出会って、それから直接お目にかかって、個展のお手伝いもさせていただいたりして……。僕にとって岡見さんはずっと雲の上の存在です。だから今日は柄にもなく、ちょっと緊張しています。
自分がワインづくりに関わるようになって感じるのは、「技術って手段だよな」ということです。結局、人間って自己表現だと思うんですよね。自分をどういう風に相手に伝えるか、それを物で伝えるのか言葉で伝えるのか……。岡見さんも自分もものを通して自己表現しているのではないかと、おこがましくも思っています。岡見さんはどうして陶芸家になろうと思ったんですか? 
岡見:
もともと高校生の時に姉が持ってきたぐい呑みを見て「陶芸家になりたいな。焼き物を作ってみたいな」って思ったんです。「これは誰が作ったんだ?」って姉に聞いたら備前の作家さんで、「その人に弟子入りさせてもらえないか聞いてくれ」って言ったら高校生だから卒業したらいらっしゃいって。当時高校2年生でしたが、卒業するまでの間にその人が亡くなっちゃったんだよね。僕はその一個のぐい呑みを見てこれを作りたいと思ったわけで、その人以外には興味がなかった。じゃあしょうがねえやと思ってデザインをしばらく勉強して。でもやっぱり焼き物の方が面白そうだなって思った。
小林:
ええ。
岡見:
なんか、顔に出るじゃない。好きなことをやっていると。四つ上の兄がいて、高校まで一緒のところに通ってたんだよ。この兄貴がめちゃくちゃ出来が良かった。高校の校長先生が「お前のお兄さんは本校始まって以来っていうくらい頭が良かったんだけど弟はどうしたんだ?」ってわざわざ言いにくるくらい。大きなお世話だよって(笑)。硬派で、いつもヤクザと喧嘩してて、学校で勉強している姿なんて見たことないの。でもなぜ勉強ができるかというと、僕が寝るくらいの時間に起きて、朝まで勉強していたから。入学してすぐにテストで、女の子に負けて二番だったのが悔しくて、ずっと毎日勉強していたんだね。
時々日曜の朝に会うと、兄ながらすごくきれいな目をしていた。何でもいいけど一生懸命やってると顔が良くなるのかなって。元々のつくりは親の影響だから仕方ないとして、魅力的な顔ってあるね。
小林:
ああ、なんかわかります。
岡見:
くすぶってるのって嫌じゃない? 「100年後に誰か見ててくれる人がいたらいいかな」って、学校をやめて京都に行って、弟子入りさせてもらった。母親も一緒に挨拶に来たんだけど、その時に先生が「40歳くらいまでは修業にかかって食えない世界ですが、それでもいいんですか?」って。その時母親が言ったのは「うちの息子は死んだと思って諦めますからどうぞご自由に」。
そんなやりとりがあったと聞いた姉が心配して、僕にお金を送ってくれるのよ。お茶の先生をしていたから月謝がたまると送ってくれてね。ありがたかったねえ。
33歳くらいの時に「もう俺食えるからお金なんか送ってこなくていいから」って言ったら「7年儲かった」って言われたの。40まで送らなきゃいけないと思ってたみたい。でも最近「あんた目を離した隙にまた貧乏になったね」って言われた(笑)。親にも兄弟にもいろんな部分で世話になったんだよね。でも俺が金持ちになることを誰も望んでない。ただ良いものを作らないと、少なくともや親きょうだいに格好がつかないので、せめて身近にいる人ぐらいには「あいつ良いもの作るようになったじゃない」って納得させるぐらいのものは作っていかないと。極端に言えば、うちのかみさんが旦那の作ってるものはいいと思えないのであれば、それはあまりいいものじゃないだろうと思うから。一番近くにいる人がいいと思えないのであればね。
小林:
京都の先生のもとで修業したのち、ヨーロッパに行かれたんですよね。
岡見:
器用貧乏なところがあるんだよね。先生が他の陶芸家仲間に、「今度入ってきた弟子はすごく覚えがいいんだけどああいう奴はすぐやめるんだよね」って僕のこと話してて。言われたことがすぐできちゃってたんですよ。そうすると途中で飽きちゃうというか、もういいかってなっちゃうんだよね。ただ僕を紹介してくれた人がいる手前、すぐにはやめられないなあと。もう辞めようと思ってた時に、たまたま前に住んでた老夫婦のお爺ちゃんが鴨居に首を吊って亡くなっちゃったんですよ。おばあちゃんがギャーって言うから僕が見に行ったら第一発見者みたいになっちゃって。兄弟子がちょうどお休みで僕と先生しかそこにいなくて、僕はその日たまたま東京から女友達が遊びにくることになっていた。先生は独身なんだけど、彼女がいて毎晩彼女の家に行くんですけど、自殺騒ぎで警察官や野次馬がいるから、どうせ行けないやってことで「お前迎えに行っていいよ」って。でも僕が京都駅からホテルまで送って帰って来たら、一滴も酒を飲まない先生の目の前にビールが置いてあった。「これはやばいな」って思った時に「お前何で勝手に出かけて行ったんだ」「勝手に出て行ったんだから明日荷物をまとめて出ていけ」って言われて。
小林:
タイミングとしては最悪ですね。
岡見:
兄弟子に相談したら、「とりあえず謝れ、俺も一緒に謝ってやる」って1カ月ぐらい毎日「本当に申し訳ありませんでした」って、リビングの隅でじっと座って。1カ月たって「そこまで言うんだったら許してあげる」って言ってもらえたので、「すみません、あと1カ月で辞めさせてください」って。そこで辞めてすぐ次の先生に弟子入りするのも悪いから、とりあえず海外に行ってみるかと。僕は2万円しかなかったから、友達みんなのところを回って「俺いついつからヨーロッパに行くのでカンパしてください」ってみんなから1万円ずつもらって15万円になったので、これでシベリア鉄道に乗って行った。
小林:
クラウドファンディングの先駆けだ!
岡見:
母親に「お前はもう焼き物やめるのか」と言われたので「やめるつもりはないけどちょっとヨーロッパを見てみたいから2~3カ月で帰ってくる」って出発して、結局2年。帰る金がなくなっちゃったんですよ。ロンドンとアムステルダムとストックホルムでバイトして、そしたら結構金が貯まったのでアフリカ行こうと思ってスペインに移動して、そこで初めて母親に「アフリカへ行くからもうしばらくかかかるかも」って手紙を出したら、返事に「姉が結婚するから、一度日本に帰って来い」って言われて帰国しました。実家に帰ったら母親が「あんた確か2カ月って言ったけどあんたの2カ月は長かったねー」「そうだよね、ヨーロッパは時差があるんだよな」って(笑)。

いい焼き物を作るまでは死なない。

小林:
面白い(笑)。生死を分けるような大怪我もされていましたよね。
岡見:
九州にいた時にハンググライダーをやってて、空から落っこちたんだよ。何度か練習はしていたんだけど、その日スタート地点に立った時に「俺、高所恐怖症だ」って初めて気が付いた。下見たらすごく怖かった。でも、列を組んで飛ぶから、後ろに人がいる。帰らしてくれとはもう言えないんだよ。えいやっと飛んで、パッと見たら下に高校があったの。高校とヘリポートの間にネットがあって、そのネットに引っかかり、そのまま落ちて、手がぐちゃっとなったの。隣で体育してる高校生が「あ、死んだ死んだ」とか言っててさ。
それで高校生に「ちょっと悪いんだけど救急車呼んでくれるかな」って言ってそのまま救急車で運ばれて、手術が終わって部屋に戻った時に医者に「岡見さん、覚えてますか?」って。局部麻酔なんだけどハイになっていて何を喋ったか僕はあんまり覚えてないけど、NHKのインタビューに答えたりとか、看護師さんに「手術が終わったらお茶を飲みに行きましょう」と誘ったりしていたみたい(笑)。
まあ一命は取り留めたんですが、医者に「あなたは何してますか?」って聞かれて、「焼き物をやってます」って言ったら「たぶん手は治らないから退院したら他の仕事を探してください」って言われたの。
一時はこりゃダメだなと思って他の仕事をしていたんだけど、その時強烈に思ったのが、「医者がダメだって言っても、もし焼き物をまたできるようになったら、きっと僕はいい焼き物を作るために生まれてきたのだろう」と。
小林:
すごくポジティブに。
岡見:
できないのだったら、怪我をしていなくてもロクなものを作れないだろうと。母親にはある程度治ってから報告したんだよ。そしたら母親が「あなた怪我してハンググライダーをやめるのは格好悪いから治ったら一度飛びなさい」って。
小林:
ハハハ(笑)、すげーカッコいい。
岡見:
江戸っ子なんだね。その後1回飛んで、そのハングライダーを骨折の手術をしてくれた先生に15万で売りつけた(笑)。僕は人って誰でも何か必要があって生まれてきてると思っているんです。僕はいい焼き物ができるまでは死なないだろうなって思ってる。だからきっと剛士くんだってワインを作るために生まれてきたのかもしれないし、それだったらみんなが「うわ、すげー」っていうものが作れるまではきっと死なないよ。
小林:
交通事故も含めて、死んでもおかしくないなっていう出来事は色々あって、それを考えると僕も、岡見さんがおっしゃったような着地点と言うか、「俺にはやっぱり役割があるんだろう」って思っています。でもいまの職業なのかはわからない。本当は違うかもしれないけれど。
岡見:
そんなのは自分で思い込んじゃったほうがいいんだよ。最後の評価は他人がするけど、これをやっていこうというのは自分で決めないと。僕なんかは焼き物をする中で一番大事な才能は長く続けることだと思っています。いいか悪いかなんて分からない部分もあるけど、長く続けると見えてくるものがあるから。自分が死んで何年か経った時に「あいつ結構いいもの作ったじゃない」って言われたらいいな。まあ、僕自身は陶芸家ではないので死んだ後に「結構いい焼き物を作った奴がいたんだ」って思ってもらえるくらいでいいんだけど。
小林:
えっ!岡見さんは陶芸家ではないんですか。
岡見:
僕は自身を陶芸家ではないと思ってる。規制のあるものって純粋芸術ではないと思ってるので、工芸家ではあるけど陶芸家ではないかな。だから自分の娘の学校に提出する書類には、父親の職業はずっと「陶工」って書いてたの。陶器を作る職人みたいな意味ですね。ところが娘が私立学校を受験するっていうから、親の職業欄に思わず陶芸家って書いたの。そのほうが聞こえがいいじゃん(笑)。子供に「お父さん仕事変わったの?」って聞かれて、「バカ野郎、こっちのほうが格好がいいんだよ」って。
小林:
(笑)。芸術と職人、陶芸家と陶工の違いですね。面白い。
岡見:
陶芸家っていうのは本来、他の人が決める言葉であって、自分が言う言葉ではないと僕は思ってる。芸術って他人が評価することだし、まして焼き物って最後に焼くっていう作業が残ってるわけでしょう。焼くっていう規制があるわけ。一方で純粋芸術って規制を取っ払ったところにあると思ってるんだよね。だから「仕事は何ですか?」って聞かれても、自分では陶芸家とは言えない。周りの人が「あの人は陶芸家になってきたね」っていう分にはいいかもしれないけど。ただ職人にもなれなかったのでその辺が難しいところなんだよね。
小林:
作品を作るときには、自分がいいと思うものを作ると思うんですけど、その視点って自分の視点ですか、それともお客さんの視点ですか。
岡見:
作ってる時には、自分が天才だと言い聞かせながら作っています。一方、選別する時には評論家のように冷静にならないと。ただ周りの人の意見に左右されたくないので良いか悪いかの選別をするときは自分一人だけでしますね。これちょっとなあ、と思って割ろうと思った時に「それいいですね」って言われると色気が出ちゃうわけ。こっち側に戻す可能性が出てきちゃうから。今はとりあえず1週間ぐらいは見てそれでダメだったら割る。割ることがいいとは全く思ってないんだけど、これが残るのはちょっとなと。憧れている人が10個焼いて10個残しているなら、僕は10個焼いて、その中から1個を残して行かないと、その人に対抗できない、同じ土俵に登れないから。

後編に続く

岡見周二

1953年東京生まれ。73年に京都・長谷川勇氏に師事し磁器を学び、76年に渡欧。ヨーロッパ各地を巡り帰国した後、79年に九州にて民芸を学ぶ。83年、信楽・古谷道生氏に穴窯焼成を学ぶ。86年、山梨で窯を築く。